東京ディズニーランドはなぜ、千葉県の浦安市にあるのか、考えたことはありますか? この記事では、豊かな海を捨て、ディズニーランドの上陸を受け入れた、浦安市民の判断の背景を探ります。
※NHKブラタモリ、オリエンタルランド社史を参考にしています。
浦安の豊かな海/ディズニーランドはなぜ千葉県?
千葉県浦安市の東京ディズニーランドは、埋立地に立地しています。東京都との境界を流れる、旧江戸川の河口付近です。
出典:東京時層地図
同じ場所の大正時代の様子です。現在東京ディズニーランドがある場所は、沖合の遠浅の海でした。海岸から沖にかけ、ヨシ(=葦・あし)が生い茂る、人の住めない場所でしたが、海流の関係で漁業が非常に盛んでした。
写真:浦安魚市場所蔵(境川)
浦安を流れる境川から引き込まれた船留まりには、漁師が所有する小舟がひしめきあっています。
ブラタモリ浦安編でも紹介された、かつての浦安の中心部に残る旧大塚家住宅です。江戸までの海運がつながる境川に面した、漁師宅が保存されています。
※浦安駅を南に徒歩5分。
江戸末期の建築と推定されますが、通常の漁師宅としては考えられないほど、豪華な作りとなっています。これは、浦安が関東屈指の漁業の町だった証です。
作家・山本周五郎(故人)は、昭和初期に浦安に住んでいたことがあり、浦安の海を次のように記しています。旧江戸川は、作中では根戸川となります。
北は田畑、東は海、西は根戸川、南は「沖の百万坪」と呼ばれる広大な荒地がひろがり、芦や雑草の繁った荒地と、沼や池や湿地と、その間を根戸川から引かれた用水掘が通り、その先もまた海になっていた。
出典:青べか物語 (新潮文庫)
浦安の転機/ディズニーランドはなぜ浦安に?
写真:浦安魚市場所蔵(旧江戸川)
貝が沸くように採れると言われた海を持ち、安定した暮らしを営んでいた浦安に転機が訪れます。日本が高度経済成長期に入ってすぐの1958年、浦安の住民は、旧江戸川が黒く濁り、浦安沖の魚介類が大量に死んでいるのを発見します。黒い水の元は、上流にある本州製紙江戸川工場でした。
工場側が黒い水を止めるとの約束を守らず、およそ1600人(※)もの漁師が工場に突入し、機動隊との衝突に発展し、2台の装甲車が出動しました。
公害の結果、浦安の養殖場の貝の8割が死滅し、浦安のおよそ3分の1の世帯が、住民税を収められないほどの困窮に苦しむことになりました。
※諸説あり
写真:浦安魚市場所蔵
1960年、浦安町議会は、思い切った決断をします。浦安を支えてきた干潟の漁業権を放棄し、埋め立てるとの決議です。そして、埋立地に招致するのは、時流から当然想定された工業地帯や倉庫ではなく、何と「遊園地」だったのです。
浦安町は干潟を1坪700円というタダ同然と言える価格で、干潟を、新たに設立されたオリエンタルランド社に譲り渡しました。オリエンタルランド社との交渉に臨んだ漁師の決断は早く、1962年には漁業権の一部放棄が決まります。1970年には埋立工事が完了しました。
埋立地の開発を担当したオリエンタルランド社は、当初はディズニーランドではなく、キャラメル工場や全国の名産品売り場を含む、独自のスタイルの遊園地を計画していました。また、出資者に宅地開発を推す声もありました。浦安に国際空港を作る計画まで持ち上がり、非常に紆余曲折がありました。
ディズニーランド招致が決定した後も、こんどは米国のウォルト・ディズニー・カンパニーの許諾を得る必要がありました。当時ウォルト・ディズニー・カンパニーは、奈良ドリームランド(閉園)とトラブルがあり、日本への進出には強い拒否反応を示していたのです。それでも、粘り強い交渉が続けられ、1974年12月、オリエンタルランド社は、ついに米国のウォルト・ディズニー・カンパニー幹部を招き、浦安の魅力を説明する機会を得ます。会場の帝国ホテルから、サロン付きの豪華なバスで浦安に移動すると、この日のためにチャーターしたヘリで、上空から浦安一帯を見せます。
そのときに強調されたのは、東京から近いことのほかに、周囲を旧江戸川や海に囲まれており、埋立地には住宅が立ちにくいという点でした。これは、米国のウォルト・ディズニー・カンパニーが、非日常性の演出を大切にしていることを踏まえてのもの。さらに、浦安の雨が少ない気候条件も決め手になったとされています。
いずれにしても、かつて浦安に大量の魚介を運んできた、遠浅の海に、夢の遊園地を招こうとする発想の大転換でした。当時近隣の町は、どこも工業地帯や倉庫の誘致に力を入れていましたので、これは異例中の異例の選択でした。
世界各地からディズニーランド進出の要請を受けても、品質への高いこだわりから簡単には承諾しないのが、ウォルト・ディズニー・カンパニーです。しかし、浦安の強い熱意に動かされ、視察からわずか3日で受け入れを返答します。
その後、計画はスムーズには進みませんでしたが、1978年に町民の代表が、少しでも前に進めようと、ウォルト・ディズニー・カンパニーを訪ねます。ディズニーランド社は、断じて安売りはしていないということを説明した上で、「いろいろな困難もありますがディズニーの名において、このプロジェクトを必ず成功させます。そして、浦安を世界の観光都市にしてみせます。そのことは、あなた方にとっても誇れることになるはずです」(※)と約束します。
※出典
http://members.jcom.home.ne.jp/ums/urayasu.html
このようにして、ようやく東京ディズニーランドの建設が決まり、浦安は漁業の町から、東洋一の観光都市へ飛躍を遂げてゆきます。
東京ディズニーランドの観光客数は、3130万人(2013年度。千葉県算出)。これは、初詣客が全国2位(2016年)の成田山新勝寺の約3倍、巨大展示場の幕張メッセの約5倍もの規模です。もし浦安市が東京ディズニーランドではなく、工場や倉庫、あるいは新国際空港を選択していたら、現在とは全く違う風景が広がっていたはずです。
古い歴史も残す浦安の町/ディズニーランドはなぜ浦安?
新しく生まれ変わった浦安ですが、かつての面影も随所に残ります。浦安駅そばの浦安魚市場では、江戸時代から親しまれる焼蛤や焼きあさりが提供されています。
浦安魚市場の900円の海鮮丼もおすすめ。
かつての浦安の中心には、海の神である清瀧神社があります。内部には、浦島太郎や竜宮城の彫刻が残されています。
※浦安駅から南へ徒歩約7分。
中央公園にある「浦安富士」からは、沖に高層マンションを見ることができます。浦安富士は、浦安の干潟埋め立ての出発点です。少しでも、生活の場に自然を設けようとの意図から、浦安富士が作られました。
※新浦安駅から西へ徒歩約20分。
以上「ディズニーランドはなぜ浦安? 豊かな海を捨てた浦安市民の決断とは」をお送りしました。都民には、埋立地とマンションの町のイメージがある浦安ですが、江戸時代から自然とともに生きる理念を持った、ある種、環境都市であることがわかります。もし工場や倉庫、あるいは新国際空港を招致していれば、現在とは全く別の浦安が誕生していたのです。
参考資料
NHKブラタモリ浦安編:
http://www.nhk.or.jp/buratamori/
浦安の歴史に学ぶ:
http://members.jcom.home.ne.jp/ums/urayasu.html#chap6
オリエンタルランド50年史
この記事では紹介しなかった、ブラタモリが訪れた浦安のスポットを、地図つきで紹介しています。
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