川は十分な水量があり蛇行をしているのが良い。周囲を低い山々に囲まれているとなお良い。そしてそこには赤い鉄橋がある。阿賀野川はそのような川であった。
鉄橋を見た旅人は、素晴らしいものを見たと感慨深く、車窓からカメラに収めようとしてみる。すると地元の高校生がひとり自転車で橋を渡ってゆく。旅人にとって都会の喧騒を忘れさせるこの和製映画のような光景は、自転車の高校生にとっては、慣れ親しみとうに飽きてまった光景である。そして彼の置かれた状況によっては、自分を縛るこの土地という足枷の象徴的存在かもしれない。向こうに渡ってもこの町。こちらに戻ってもこの場所。昨日も渡った橋を今日も渡り、何かの決意なしには死ぬまで渡り続ける。
かのように同じで景色であっても180度も違う解釈を生む。言葉も同じである。だが言葉には正しい解釈があると疑わない人が多い。筆者の解釈、読み手の解釈、そして同時に同じ文章を読んでいる無数の人々の解釈は、「ずれ」というレベルを超えて、想像を絶する違いを持つことに無関心である。確かに言葉は前後の言葉によって意味の振(ぶ)れ幅を縮める機能がある。だが、電子機器で読まれる文章は180度違(たが)えて読まれることも多い。時間がないので「読む」ことを求めるわけにもいかない事情があるが、そこでなされているのはむしろ「思う」という行為である。これは必ずしも批判しているのではない。何かを「思う」ことも面白いのである。このとき自戒すべきは、思ったに過ぎぬことをもとに勇んで取り返しがつかない言葉を吐かぬことである。