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就活でバレる? ボランティアは、自己満足や偽善に過ぎない~やまもとりゅうけん氏が指摘~

就活の面接が解禁され、下級生も1年後へ向けてスタートを切る時期です。就活の自己PRによく使われるボランティア経験に対して、自己満足、偽善、承認欲求の充足という見方をする人がいるようです。

※過去の記事を大幅改訂しました。

ブロガーやまもとりゅうけん氏が、ボランティア=風俗通いと批判

www.ryukke.com

ブロガーのやまもとりゅうけん氏は、ボランティア=風俗通いだと批判しています。

要旨

  • わざわざNPOを立ち上げ海外に渡航し、現地で汗を流し続ける人がいるが、全く理解できなかった。
  • なぜなら、「めちゃくちゃ稼ぎやすい日本」で成功してから、恵まれない地域にお金をばら撒いた方がコスパが良いはずだから。
  • 「ところが、最近わかったんですよ。彼らのボランティアは、弱者を救済するためではなく、自身が得られる体験(快楽)のために行われているということに。そして、それは本質的には風俗で20K支払うのと変わらないのではないかと」

やまもとりゅうけん氏は、ボランティアをする人は、相手のためでなく、自己満足ではないかと指摘しています。非常に論が浅く、驚きます。

やまもとりゅうけん氏は、「めちゃくちゃ稼ぎやすい日本」と言いますが、やまもと氏は、インターネットビジネスの人。右肩上がりの業界で、成功するのは難しくありません。世の中には、様々な仕事をしている人がいることを、理解すべきです。例えば、福祉業界で働く人は、日本の今とこれからを支える人材です。彼らに対し、あなたは業界選びのセンスがない。なぜ、わざわざ儲からない業界を選んだのか? すぐに転職すべきだ、とは言えないはず。想像力の欠如です。

また、ボランティアは、自身が得られる体験(快楽)のために行われていると言いますが、では逆に「快」を目的としない、人の所作は存在するのでしょうか? 少し考えれば分かることです。確かに、満員の通勤電車に乗ること、あるいは苦手な取引先を訪問すること、これらは「快」を目的としない所作です。しかし、これらはやむを得ずなかば強制された行動です。人が自主的に行う行為は、何から何まで、基本的には「快」が基準となります。人間存在の根本に対する、想像力の欠如です。

『人生逃げ切りサロン』を主催するやまもとりゅうけん氏に、ボランティアを語る資格なし

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ブロガーのやまもとりゅうけん氏は、『人生逃げ切りサロン』というブログを収益化する塾のようなものを開設しています。この『人生逃げ切りサロン』というネーミングに、やまもとりゅうけん氏の考え方が、透けて見えています。

伸び盛りで成功しやすい業種で、お金を貯めて、自分の食い扶持を稼ぎ、贅沢をして逃げ切る? 何と、浅薄な発想でしょう。大きなお金を稼ぐ人のなかには、なるべく効率よく稼いで、誰かを助けたいという人も、多くいます。生涯、自分のためだけに稼ぎ続け、最期は、豪華な個室で、特別な診療体制のもとで迎えたいということでしょうか? 

もしあなたが、「私は普通の病室で相部屋であっても、誰かを支えることができたという振り返りを以って、人生の幕を閉じられれば、それで構わない」と思うのなら、やまもとりゅけん氏に、私はあなたとは違うと反論して良いと思います。

ボランティアに対する捉え方には、人生の全体像が関与しています。「ボランティアは、自己満足や偽善に過ぎない」という言葉は、自己満足を軸に、偽善を重ねてきた人から出る言葉です。逆に、ただ道を歩くように、あるいはただ呼吸をするように、ボランティアができる人もいますが、彼らには思いもよらないのです。どちらの人生でも構いませんが、他人の「自分が分からない」人生に口を出すのは、慎むべきでしょう。

ボランティア=風俗通いなのか

Volunteering

やまもとりゅうけん氏は、以下のように主張します。

  1. ボランティア活動で得られる価値は「安心という快楽」。自分より「持たない者」と生身で触れ合い、彼らに尽くすことで「豊かな自分」を強く認識できる。
  2. 弱者を救済することは美徳とされ、社会的な承認欲求も満たすことができる。これも快楽の一種。
  3. 彼らは、寄付のような間接的な手法で支援するのでは、充分に快楽が得られない。実際に自分が会いに行って体を動かさないと満足できない。わかりやすく言えば、自宅でxvideos観ながら右手動かしてるより、実際にお店に行ってヤりたいというのと一緒。

突っ込みどころが満載すぎて、グウの音も出ません(笑)

しかしながら、実際に自分が会いに行って体を動かさないと満足できない、という指摘には、一理あるでしょう。人は、10代や20代の頃は、出会うことができる1人、1人を手助けしたいという欲にかられますが、成長すると、多くの人を1度に助けることができないかと、視野が広がることがあります。

例えば学校の若い先生は、直接1人1人と向き合うことにやりがいを見出しています。そして、校長はクラスも持たずに楽しいのかな?と考えているはずです。しかし、校長は校長で、もっと高い視点を持っていることが大半です。ボランティアの形態は、人の成長に合わせて、進化してゆくはずです。やまもとりゅうけん氏は、視野の高い一面を持っていることも確かです。

人は自己満足のためにボランティアに行く、偽善者なのか

人はなぜボランティアに行くのでしょうか?

多くの人は「人助けをしたいから」「社会貢献をしたいから」と、頭で考えた、理性的な答えを準備しているはずです。しかし、見てきたように、ボランティア(社会貢献)は、生き方、育ち方、死に方の問題です。つまり、感性の問題と言えます。ただ道を歩くように、あるいはただ呼吸をするように、ボランティアに向かう人も存在するのです。自己満足、偽善、承認欲求といった、コトバで扱う問題ではありません。

人を好きになるのに理由はいらないように、ボランティアに行くのにも、理由はありません。ただ、生き方、育ち方、死に方の問題なのです。

(^o^) じゃーな!

 

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