とらべるじゃーな!です。実は、私のビジネスモデルは、冬場は収益が上がりにくいです。そのため、焦りからか、最近はアクセスを狙った記事ばかり。今日は時間ができたので、久しぶりに、ブログらしいブログでも書いてみます。
町田の体罰事件
元予備校講師のため、現在は高校に呼ばれて、講演や受験指導に行くことも多いです。そんな立場から、町田の体罰事件について。
挑発された先生が生徒の顔面に右ストレート、倒れた後も引き摺り回す 都立町田総合高校 | 日本の科学と技術
事実認定は、客観性が感じられた上の記事から。現地取材やインタビュー等は行っていません。
日蓮宗のお坊さん「人が争うのは、全て自己保存のためなのです」
今日、テレビを見ていたら、日蓮宗のお坊さんいわく「人が争うのは、全て自己保存のためなのです」とのこと。なるほどね。
- 男子生徒は、何かを主張したくて、あるいはちょっと大人に見られたくて、ピアスをつけた。校則に反していたが、こうなりたい自分を維持するのに、ピアスは必要だった。
- 男子生徒は、友人に「これから(先生を挑発)する」と宣言していたという。もし事実なら、彼にとって、それが友達関係のなかでの、自分のプレゼンスを保つのに必要だったのかも知れない。
- 先生は、保健体育(生活指導)担当とのこと。少し難しい高校ほど、保健体育の先生の役割への期待は大きい。学年集会で全員を静かにさせることができるのは、保健体育の先生だけ。「その小さい脳みそでよく考えろ!」とほかの生徒の前で言われては、自分の威厳や役割を保てない。何とかしようと思ったのも理(ことわり)。
生きることそれ自体が素晴らしいことだとすれば、自己保存の本能は、すべて善と考えることができる(※)。生徒も、級友も、先生も、そして先生を庇(かば)わない校長も、明日も自分の認めるところの自分であるために、ピアスをつけてみたり、暴言を吐いてみたり、暴力を振るってしまったり、部下を見捨てたり。
(※保坂和志がそう言っている)
組織とはそんな場所なのかも知れない。「人が争うのは、全て自己保存のため」なのだが、たった1割でも良いので、相手の生きてきた人生を考えてみればよかった。相手の生き方にまずは興味を持って、まずは認めてみる。そして、その立ち位置に至ったストーリーを聞いてみる。
先生は、なぜ体育の教師を選んだのですか? そのピアス、なかなかいいじゃないか。どんな風に選んだの?
あまり部外者が分かった口、利くもんじゃないよ
ほとんど読んでいないが、さまざまな人が、今回の体罰事件について、意見を述べている。もちろんそれは自由だし、私もそうしている。ただ、あまり部外者が分かった口、利くもんじゃないよとも思う(私も部外者)。
東日本の高校は、講演や受験指導に呼ばれれば行くようにしているので、それなりの高校に行ったけど、はっきり言って、神奈川の都市部やあのあたりの高校は、東日本一、指導が難しい。これは話してみれば分かるけど、高校の先生をして、まず全員を静かにさせるのにとても難儀する環境(が多い)。生徒の状況は、ほかの地区にないほど厳しい。
なぜか? 1つには、家庭が学校を信頼していないことがあると思う。学校はサービス業。先生に何かされたら、すぐ家に言いなさいという親が、多いと思う。
このような環境のなか、多くの先生は、生徒に踏み込むよりは距離を置き、尊重あるいは、なかば放置をするような形で、担任の1年間をやり過ごすしかないように見える(私は高校教諭ではないので、傍から見た推測だが)。先生と教え子の信頼関係は、教諭の宝だが、部分的には諦めるしかないだろう。
そのなかで、生徒のピアスと向き合った、あの先生は異質だ。もしかしたら話が通じるかも知れないと信じ、生徒とやりあう人は、少し珍しいのではないかと思う。また、いまどき不良張りに、先生を正面から挑発する生徒も少し珍しい。
10年たって、あの時はお互いにイキッてたな、と酒を酌み交わす日が来ると良いと思う。
「人が争うのは、全て自己保存のためなのだ」 相手への恨みは、実はない。